「新世界」の変化と対立 新しいワイン産地が独自の道を歩み始める (A.D.1900~A.D.1950頃)

 ヨーロッパ、特にフランスのワイン世界に変化が起こっているころ、新世界諸国の様子もまた大きく変わっていました。

 アメリカでは20世紀初頭に禁酒法が制定され、飲酒、種類の製造、輸送などが全面的に禁止されます。
実はアルコールと飲酒を良くないものとして社会から排除しようと考える勢力は、17世紀ころからヨーロッパやアメリカに少数存在していましたが、当時はまだほとんど影響力を持ってはいませんでした。
しかし、一部の極端な人々とそれを支持する集団の出現、茶やコーヒーなど清涼飲料のメーカーによる利益拡大のための支持、そして第一次世界大戦を主とする社会情勢の変化などが重なったことで、1920年についに「0.5%以上のアルコールを含む飲料」を違法とする禁酒法が成立します。
当然、ワインは製造も販売も禁止され、当時ようやく根付きつつあったアメリカのワイン業界は大打撃を受けました。
この法律は実際のところ、肯定派が主張していたような良い効果をもたらすことはなく、むしろ違法酒場(スピークイージー)や闇ワインの大量出現と、それを牛耳るギャングの成長を促しただけに終わり、たった13年ほどで撤廃されることになりましたが、そのわずかな期間の間にワインの醸造所も技術者もアメリカを離れてしまったのです。
禁酒法廃止後も半数以上の生産者は活動を再開できず、残った人々ももう一度白紙の状態から手探りでワイン造りを始めなければなりませんでした。

 しかし、これが逆にアメリカのワイン造りにとって転機となります。
確かに1940年代以降もスティルワインの需要はなかなか回復せず、蒸留酒やビール、フォーティファイドワインなどに苦戦することとなりましたが、その間にアメリカの土地に適した品種や醸造法の研究が改めて行われ、それまでのヨーロッパ方式のコピーではなくアメリカならではのワイン造りの基礎が築かれたのです。
第二次世界大戦後にはヨーロッパから帰還した兵士たちによる需要増加もあり、質の高いワインの生産が加速。
テロワールを絶対視するのではなく、灌漑などで調整をして品種によって特徴を出すヴァラエタルワイン中心のスタイルによって、独自のワイン造りを行うようになります。

 オーストラリアでも、第二次世界大戦後に大きな動きがありました。
異なる畑や生産者のワインをブレンドして味を調整するアッサンブラージュ主義と、単一の畑からのブドウにこだわる単一畑主義に派閥が分かれ、それぞれの持ち味を生かしたワインが評価されるようになったのです。
この二つの派閥は対立するものではありましたが、単一品種のブドウを使用してワインを造るという点では共通していました。

 こうした新世界の動きに対して、旧世界、特に投資や資産となるような高価格ワインを扱う業界の視線は冷ややかでした。
彼らからすれば、嗜好品としてのワインよりも広く通用する共通する価値観のほうが重要であり、新しい基準を乱立されることはデメリットでしかありません。
また、ヨーロッパ世界に共通する「より長い伝統を持つものや古いものを喜ぶ」という考え方も、ワインに関する「新しい」方針の価値を認めがたく感じさせる一因となりました。

 旧世界と新世界の対立は消費者によって世界中で拡大され、日本においては「ワインは面倒な酒」と忌避される原因となったほどでした。
しかし、20世紀から21世紀へと時代が進み、世界中の情報に簡単にアクセスできるようになったことで起こった変化が、状況をどんどんと動かしていくことになります。