イタリアの地域データ 位置、歴史、気候など

目次

イタリアとは

 イタリアはヨーロッパに位置する共和国です。
地中海に突き出した、ブーツのような形のイタリア半島とその付け根の大陸部分、そしてその周辺の島々からなる領土を持ちます。
現在はフランス、スイス、オーストリア、スロベニアと国境を接し、バチカン市国など幾つかの極小国家を内包しています。
地中海へ張り出した領土の南東はギリシャに近く、その地理的な条件からヨーロッパの中でも特に早い時期にワイン造りが伝わった地域でした。
ローマが帝国となって広大な領土を保持していた時代はその中心地となりますが、帝国が東西に分離し西ローマ帝国が滅びると、周辺のあらゆる勢力による侵略にさらされるようになり、やがて北部と南部で大きく異なる歴史を歩むようになります。
11世紀頃までの大混乱期の間に、ワイン文化の中心的な役割はフランスに奪われ、19世紀のイタリア統一後には「質より量」を基本方針としたワイン造りを進めてしまったため、第二次世界大戦が終了して方向性を改めるまで、イタリアワインは一般に質の低いものでした。
しかし、20世紀末から急速に改善が進んだ結果、現在ではフランスに並ぶほどの生産量と品質を誇る、国際的なワインの主要生産国として認識されるまでになっています。
イタリアの土壌は、地質面ではフランスのような特筆すべき土地はほとんどありませんが、全体に斜面がちな地形はブドウ栽培に有利で、国土全体に多くのブドウ畑が広がっています。
北部の内陸側や高山地帯以外は海洋性の温暖な気候帯に属するため、しっかりと熟成の進んだボディのたっぷりとしたブドウの生産も可能。
20世紀まではそのポテンシャルのほとんどを量産方面につぎ込んでいましたが、品質向上に向けるようになった近年では、フランスの主要産地に負けない高レベルのワインも増えてきています。

イタリアのワインに関する歴史

ローマ以前

 イタリアの南部にブドウの栽培が伝わったのは、紀元前20~12世紀頃といわれています。
これはヨーロッパの地域の中でも特に早いほうで、長い時間をかけてワイン造りが地域へとしっかりと根付いていくことになります。
紀元前8世紀頃になると、数の増えたギリシャ人が南イタリアを中心に次々と殖民していき、「マグナ・グラエキア(大ギリシャ)」と呼ばれるほど社会的・文化的にギリシャ化していきました。
そのため、この当時のワインはギリシャ風の極甘口のものが最良で、女性は一般的に口にすることを許されていなかったようです。
紀元前4世紀頃にはギリシャ人が作った都市やそれ以外の民族が群雄割拠する状態になっていましたが、急速に成長したローマがそれら全てを征服していき、イタリア全体がローマ帝国の領地に統一されていきます。

ローマ帝国

 ローマ帝国時代、イタリア半島は当然ながらもっとも主要な地域とされ、文化的にも大きく発展していきます。
現在のカンパーニャ州にあった都市ポンペイの遺跡には、数百m角の地区ブロックごとに複数の酒場や醸造所が設けられ、人々が日常的にワインを楽しんでいたことが分かっています。
しかし、ガリア(現在のフランス)でのワイン造りが拡大するにつれて、ワイン産地としての重要性は徐々に薄れていってしまいました。
歴史あるワイン産地を保護するために様々な対策が取られ、西暦1~3世紀にかけてはイタリア半島での新規のブドウ園の開拓やイタリア以外の地域のブドウ栽培を制限する規則が設けられていましたが、ほとんど守られていた形跡が認められず、効果はあまりなかったようです。
ローマ帝国末期になると、キリスト教の修道士たちによって次々とブドウ畑が開墾され、ヨーロッパ中にワイン文化が広がっていきました。

混乱期と南北の分裂

 東西に分裂したローマ帝国のうち西ローマ帝国が滅亡すると、周辺の複数の勢力がイタリアの支配権を奪い合う混乱期に入ります。
ランゴバルド王国、東ゴート王国、東ローマ帝国などに加えて、東方で勢力を伸ばしたイスラム教国家が侵入してくることもあり、長い争いと繰り返される支配者の交代によって多くのブドウ産地が衰退していくこととなりました。
そうした動きの中、8世紀には教皇領を挟んで南北が別の勢力によって支配されることとなり、この後数世紀の間別々の歴史を歩むようになります。
また、この頃からフランスでのワイン文化の広まりやブドウ畑の開拓が加速していき、品質や醸造技術などの面での中心地としての役割が完全にフランスに移動してしまいました。

北イタリアの繁栄

 北イタリアでは11世紀頃から情勢が落ち着きを取り戻し、アドリア海やティレニア海を中心に地中海交易、そして金融業が盛んになります。
さらに12世紀からは農業技術の発達と耕地の拡大も進み、次第に商人達が富を蓄えて権力を増大させていきます。
大きな力を持った都市はコムーネ(commne)と呼ばれ、古代ギリシャの都市国家のように自治を行うようになっていきます。
13世紀には十字軍の派兵がはじまり、これに関する物資の運搬と供給によって諸都市の力が向上していきました。
商売に成功して莫大な富を得た商人は封建貴族から土地を買い取って小作人を使って作物を作らせるようになり、これによって農耕地が拡大、小作人たちの居住地も分散していきます。
また、大きな土地を所有する地主は、自分の権力を示す目的で館周辺にブドウ畑を作り、ワインを蓄えたり客に振舞ったりするようになりました。
こうした生産と需要の拡大によってワイン文化が一般の人々の間にも浸透していき、貴族や富裕層だけでなく一般庶民にも、ワインを食事の際に日常的に飲む習慣が定着していきます。

教皇領と中央イタリア

 中央イタリアでは、ヨーロッパ全体に広がったキリスト教の中枢機関として存在する教皇領を中心として、高品質なワイン造りが行われるようになります。
大きな権力に関するため政治的な混乱は他の地域よりも多かったものの、キリスト教圏が拡大し教会税などによって莫大な富が集まってくるようになると、それを基盤としていやがおうにも発展していくことになります。
14世紀頃からはルネサンスなど学術的・芸術的な盛り上がりもあり、芸術家や富裕層の需要に応える形でワイン造りも進化していきました。
ただ、芸術や金融業などが発展しすぎて、相対的にワイン産業は影が薄くなってしまいます。

南イタリアの発展と停滞

 南イタリアでは、9世紀にシチリア島へとイスラム系の勢力が侵入し、シチリア首長国が統治を始めます。
イスラム教では飲酒が禁じられているためワイン文化は停滞してしまいますが、幸い文化的・宗教的に寛容な支配体制が取られたため、消滅は免れました。
11世紀にフランス北部からやってきたノルマン人が、シチリア島と南イタリア全体を征服してシチリア王国を建てると、2世紀ほどの間その多様な文化を背景に繁栄し、ヨーロッパでも最先端水準の文化が生まれます。
東方の知識人なども多く招かれたことからギリシャ風の文化も再興し、使用されるブドウ品種やワインの方向性もギリシャ化していきました。
しかし、次第に社会の多様性が失われるとそれに比例して国力も減退。
1266年にはフランス・アンジュー家に支配権が移ります。
フランスの支配を嫌ったシチリア島では反乱が起こり、スペイン・アラゴン王家の助力でアンジュー家を追い出すことに成功しますが、これをきっかけにアラゴン王家の支配を受けるようになってしまいました。
こうしてシチリア島にはスペインが支配するシチリア王国、イタリア半島にはフランスが支配するナポリ王国が生まれましたが、どちらもそれまでの統治者と違い厳しい圧政を敷いたため、ワインを含めあらゆる産業や文化が停滞、もしくは衰退することとなってしまいました。
北部と異なり中央集権的な支配体制だったため居住地や農地の拡散・拡大も起こらず、中世に大きく発展した北部との格差が開いてしまいます。
南イタリアのこの状況は、支配者こそ何度か入れ替わるものの、19世紀のイタリア統一まで続くこととなります。

スペインによるイタリア支配

 繁栄していた北イタリアも、15世紀に喜望峰周りの航路が発見されると、海洋交易の要としての立場を失い次第に衰退していきます。
また、新大陸が発見され中南米から大量の金銀が流入したことで、ヨーロッパ中で深刻なインフレが発生。
金融業の中心として発展していたヴェネツィアなどの諸都市は、大きなダメージをこうむることになりました。
結果、自治を維持できなかった都市国家や共和国はフランスやスペインの支配を受けることとなり、ジェノヴァ共和国やヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国など幾つかの共和国以外は消滅してしまいます。
スペインは南イタリアと同じように中央集権的な支配体制を敷いたため、こちらも発展が全体的に停滞するようになり、「文化的・産業的な進展は何一つなかった」とすら言われるこの状況が19世紀まで続きました。

イタリア統一

 この停滞した状況が打破されるのは18世紀末。
フランスの将軍、ナポレオン・ボナパルトが攻め入ってきたのがきっかけでした。
1805年にナポレオンが達成した事実上のイタリア統一はわずか10年ほどで解消されてしまいますが、こんどはイタリア人自らの手による再統一を、という機運が生まれ次第に大きな動きへと変わっていきます。
当時は共和派と王政派の対立などもあり順調な道のりではありませんでしたが、最終的にサルデーニャ王国が北イタリアを、革命家のジュゼッペ・ガリバルディが率いるシチリア島を発端とする反乱軍が南イタリアを攻略し、ガリバルディが南部の領土をサルデーニャ国王へ譲渡したことで、1861年にイタリアの統一が達成されました。

「質より量」のワイン造り

 しかし、国としての基盤が固まっても、ワイン産業についてはこれ以降もしばらく苦難の時期が続きます。
数世紀にわたる植民地のような厳しい支配によって、この時点でのイタリアのワイン造りは他の国や地域に比べて大きく遅れたものとなっていました。
また、イタリア統一直後にフランスで起こったフィロキセラ災害によって、ヨーロッパのワイン需要が一時的に急増し、「質より量」のワイン造りが求められていたことも、方向性を決定付ける大きな要因となりました。
国家として安定した資金源となる産業を必要としていたイタリアは、国の方針として大量生産的なワイン造りに舵を切り、一部の例外を除いてほとんどの産地で品質向上を後回しにした生産が行われるようになります。
さらに、その後フランスから広まってきたフィロキセラが北西部の地域を中心に猛威を振るったため産地はさらに疲弊し、結果的に1世紀以上に渡って品質向上に意識を向ける余力のないまま大量生産的なワイン造りを続けていくこととなりました。

品質向上と先進化

 第二次世界大戦後、共和国となったイタリアは、ようやくワインの品質を向上させる努力を本格化させます。
1963年にはフランスに倣って原産地呼称統制制度であるDOC法が成立。
1965年にはイタリアソムリエ協会(Associazione Italiana Sommellier/AIS)が発足し、1973年に政府に公式認定されました。
北部と南部で、文化的、経済的な格差があったことから、近代化や品質向上のタイミングやスピードも偏りがありますが、2018年現在ではほとんどの産地で品質の向上が見られるようになってきています。
「先進国の中でもっとも古いワイン産地」という誇りを取り戻す挑戦はまだ始まったばかりですが、20世紀後半からの急激な成長からすると、世界一のワイン生産地の称号を奪い返す日もそう遠くはないのかもしれません。

イタリアのテロワール

 イタリアは北部にはアルプス山脈、イタリア半島にはアペニン山脈が通っており、山岳地以外にも丘陵地帯が多い、全体的に斜面がちな地形を有しています。
これは水はけや日当たりの面で言えばブドウ栽培にとって有利な条件ではありますが、標高が高くなりすぎると気候条件が合わなくなるため、ワインの生産地は特に南部では限定的な州が多くなっています。
北部では大きな河が流れ、ブドウをはじめとする農作物の栽培を助けてくれますが、南部では降雨量の少なさなどから折り合いがつかず、農業よりも牧畜のほうが発達した地域もあります。
内陸部では大陸性や山岳性の厳しい気候を持つ地域もありますが、海に近い地域は基本的に海洋性の穏やかな気候帯に属し、斜面の効果もあってしっかりと熟成したブドウを収穫することができます。
シチリア島やプーリア州など南端部の幾つかの州では、西側から吹く季節風の影響で夏の乾燥がつよく、適度であれば果汁の濃縮を助けてくれますが、過剰になるとブドウの育成を妨げてしまうこともあるようです。
トスカーナ州など一部の例外を除いて地質的に際立った点はあまりありませんが、ヴェスヴィオ火山やエトナ火山などの影響を受けた地域では、土壌に火山岩や火山灰が多く含まれ、ミネラル感の強いブドウを育んでくれます。