自然発酵から現代のワインまで ワイン製法の発展の歴史

目次

 ワインは、約8000年という気の遠くなるような長い時間をかけて、数え切れないほど多くの人々によって進化してきました。
ここではワインの歴史を、その進歩にスポットを当てて時系列で見ていくことにしましょう。

文明以前

 ブドウの果汁には糖分が含まれ、果皮には天然の酵母がついています。
そのため人間が何もしなくても、熟して落果し果皮が破けるだけで(場合によっては、枝についたままでも果皮に傷がつけば)自動的に発酵が始まります。
人類とワインの出会いは、この発酵したブドウだったと考えられています。
農耕という概念が生まれる前、野山に分け入り木の実や果実を採取していた人々は、稀に落ちている通常とは違った芳しい香りを放つブドウを探し、拾い集めた事でしょう。
この頃の人々にとって、ワインとは「収集するもの」。
これが人の手によっても造りだせるなど、考えもしなかったのではないでしょうか。

B.C.6000年頃

 現在のジョージア(グルジア)にあるコーカサス山脈にてブドウの栽培が始まり、「発酵しているブドウを拾ってくる」のではなく、「ブドウを集めて甕などにまとめて放置して発酵させる」、本来の意味でのワイン醸造がスタートします。
その少し前のB.C.8000年頃には土器や農耕の文化が生まれていたと見られており、これがワイン醸造の土台となったと考えられます。
これによって「たまたま発酵している途中のブドウを探してくる」しかなかった頃に比べて、より多くの人がワインを飲む機会に恵まれた事でしょう。
また、この頃はブドウを入れておく容器としては、地面に埋めたり突き刺して使用するタイプの土器が使用されていました。
発掘された遺跡のワインの痕跡も、この土器の底から検出されたのですが、成分を分析すると樹脂を加えていたことがわかりました。
密閉が難しかったため、変質や酸化を遅らせるために松脂のような樹から取れる樹脂、もしくはホップのような樹脂分を多く含むハーブを混ぜていたと考えられています。

このブドウ栽培とワイン造りの技術は、メソポタミア地域に発生した文明やその周辺地域の人々へと浸透していきます。

B.C.2600年頃

 当時地中海の海洋貿易を行っていたフェニキア人によって、メソポタミアからエジプトへとワイン造りが伝播します。
はじめは輸入品として国外産に頼っていたエジプトですが、数百年のうちに国家事業としてナイル川流域でもブドウ栽培とワイン造りが始まりました。
当時の壁画などから見ると、収穫、破砕、発酵、分離、熟成と、すでに手順は現代のワイン造りにかなり近くなっていたと見られています。
また、保存のためではなく味を良くするために、スパイスやハーブ、果物などが加えられ、現代でいうところの「フレーバードワイン」のようにして飲まれていたようです。
ファラオの宮殿や墓から発掘された、ワインを保存していたと思われる甕には、ブドウの品種、甘辛の区別、熟成期間などが詳しく記載されたメモが張られていたものもあり、すでに品質やバリエーションによって区別が行われていたことが読み取れます。
ただし、それでもワインは貴重な飲み物だったらしく、口にできるのは一部の支配者層に限られ、一般の人々はパンを発酵させて作ったビールやミード(蜂蜜酒)などを飲んでいました。

B.C.2200年頃

 フェニキア人による海洋貿易の範囲が拡大し、エジプトのワインがギリシャのクレタ島に伝わります。
伝播の正確な時期は判明していませんが、ブドウの栽培環境としてエジプトよりも適しているためか、B.C.2200年頃のミノア文明の頃にはすでに大量生産が行われるようになっていたようです。
ギリシャでは都市国家が衝突や協力を繰り返しながら成長し、ワイン文化もそれにしたがって地中海沿岸全体に広がっていきます。
ギリシャ全体で様々な文化が花開いたこの時期には、ワイン造りにおいても従来よりも醸造技術が発達し、アルコール度数の高い色も味わいも濃いワインが造られるようになりました。
ただし当時のギリシャでは酔うことは理性的でない下品な事とされていたため、海水などで水割りにして飲むのが当たり前だったようです。
(アルコール度数を下げるほかにも、この頃のワインがシロップのように甘かったからそのままでは飲みづらかった、という理由もある)

B.C.1500~B.C.500年頃

 ブドウの栽培地域が広がり生産量・消費量が増えてきた事で、より効率的な方式が編み出されるようになってきます。
エジプト時代から取られてきた棚仕立てでの栽培方式から、株仕立てや支柱仕立てへのような管理や収穫を行いやすい仕立て方が主流となって良きました。
より広域のワインが流通するようになった事から、ブドウの品種や栽培地域によるブドウ果汁、ワインの品質の差も認識されていたようです。
ワインの容器としては、甕だけでなく気密性の高い皮袋も使用されるようになってきました。
この時期に書かれたとされる旧約聖書の記述からは、長距離の移動時に保存の利く飲料として、または薬としてワインが利用されていたことが読み取れます。

A.D.100~300年頃

 ローマ帝国の中でキリスト教が成立し、教義の中で必要となる事からワインの生産にも関わるようになりました。
これからのち、ワインの普及や改善にはキリスト教が深く関わっていく事になります。
また、ローマ帝国がその領地を広げ、属国まで含めた全土でブドウが大量に生産されるようになったことからワインの一般化が進みました。
消費者の絶対数が増えたこともあり、それまで「濃くて甘いものほど良い」とされた基準が複雑化し、赤、白の差や甘口、辛口など、様々なタイプのワインを造る生産者が増えてきます。
もっとも、一般の人々が普段から上質なワインを飲めていたかと言うとそうではなく、基本的には「古くなったワインの水割り」や「ブドウの搾りかすを再発酵させた低アルコール飲料」などを飲んでいたようです。
これらの低品質なワインやワイン造りで生まれる副産物の利用が一般的になったのは、それだけ全体の生産量が増えていったことの証拠と考えられます。
それまで使用されていた甕(アンフォラ、アンポラ)に変わって、樽による保管や輸送が行われるようになり、熟成可能期間が延びたのもこの時期だとされています。

A.D.1000~A.D.1500年頃

 キリスト教の司祭たちによって、ブドウ生産地のヨーロッパ全土への拡大と栽培・醸造技術の底上げがなされます。
土地や国の統治者が入れ替わり、時には争いや法的な規制によって教会以外のワイン造りがダメージを受け衰退していったのと対照的に、キリスト教会のワイン造りに関する地位は確固たるものとなっていきました。
彼らにとってのブドウ栽培とワイン造りは単純な製造業ではなく、「神の御業を理解しそれを体現する」という大切な修行でもあったため、利益追求の枠を超えた真剣さで当たったことでしょう。
特にこの時期はテロワールによるブドウの品質への影響が本格的に研究され理解されるようになった時期でもあります。
その結果、フランスのブルゴーニュ地方など現在の名醸地にも教会によって畑が開かれ、ワインが造られるようになりました。

 また、エジプト時代から存在は知られていた「硫黄を使用して酸化を防止する」方式がヨーロッパで普及したのもこの頃。
ヨーロッパ内でのワインの流通が本格化し、長期保存や輸送中の品質保持の需要が大きくなったからで、オランダ人が長期間の輸送に耐えられるように、樽の中で硫黄を炊いて防腐・防酸化としたのが広まったようです。
これによっていままでよりも長期間の保管が可能になり、遠方への輸送はもちろん数年程度の長期の熟成も手法として一般化、ワインの評価の軸に加わる事になります。

A.D.1400~ A.D.1500年頃

 ポートワインやマディラ、シェリー(ヘレス)といったフォーティファイドワインが造られるようになります。
(種類によってはもっと前のタイミングだったとする説もある)
この時期には大型の船で長期間かけて海を渡る大航海時代が幕を開けており、通常よりも保存の利くワインの需要が高まっていました。
スティルワインよりも気温や振動の影響を受けづらく、高アルコール、高糖度で劣化しにくかったフォーティファイドワインは、長い航海の中に耐えなければならない船員たちの癒しとなった事でしょう。
また、マディラのように航海によって変質した事が逆に独特の味わいを生み、後年に同様の変化を起こす手法が確立したものもあります。
他にも、薬扱いだった蒸留酒が安価に作れるようになったことで嗜好品として入手できるようになったことや、熟成させたワインというものの認知度があがり需要があったことも理由のひとつと言えるでしょう。

A.D.1600~A.D.1700年頃

 それまで一部の貴族たちによって、実用と言うより装飾的な意味で使用されていたガラスボトルの、大量生産、強度アップが可能になり、ワインの容器として一般化しました。
これには、ガラスの製造に木材ではなく石炭が使用されるようになったのが大きな要因とされています。
より高温で精製されたガラスは、金属などの他の元素が溶け込み、粘りが増して割れにくくなるのです。
また、ローマ時代に廃れたコルク栓が、硬質で変形しにくいガラス瓶の栓に適していたため、再度使用されるようになりました。
それまでは木や布、蝋などで栓をしていましたが、それに比べるとコルクは機密性が非常に高く、ワインの流出はもちろん空気の流入もほとんど防ぐ事が可能になります。
ガラスボトルとコルク栓の普及は、ワインの輸送や保存に関する常識を大きく塗り替えました。
はじめは加工の容易さから理科の実験で使うフラスコのような形状をしていたものが、輸送の際の効率や保存時に寝かせる関係から、今と同じような円柱状の細長い形が一般的になりました。
ビンの形状は、澱の有無や輸送の多少、さらには地域特性を出すことを目的として、いくつかのタイプに分かれて進化していきます。
また、コルク栓が使用されるようになったことで、現代のような長期間の熟成が製法として成立するようになりました。
それまで長くとも数年程度だったスティルワインの飲み頃が大幅に延長できるようになったことで、数十年という長期間の瓶内熟成を念頭に置いたブドウ品種や製法が生み出される事になったのです。
これによって、単なる嗜好品ではなく資産としての価値を持った、超高級ワインという概念も生み出されることになります。

A.D.1650~A.D.1700年頃

 フランスの修道士、ピエール・ペリニヨンによって現在のシャンパンの原型が作られました。
彼は「シャンパンの父」と呼ばれ、シャンパンを発明した人だと思われていますが、実情は少し違っています。
晩年盲目だったドン・ペリニヨンは、類稀な味覚や嗅覚を使ってワインのブレンドを行う名人で、良いワインを造るために異なる区画でとれたブドウや異なる品種のブドウのブレンドを試していました。
さらに、樽での熟成期間をごく短くする事で香りを閉じ込めようとしましたが、これが偶然瓶内二次発酵を起こし、スパークリングワインの原型(メトード・リュラル方式)となったと言われています。
ただし、一時発酵が完全に終わっていないうちに瓶詰めして二次発酵を起こすため、ガス圧はかなり低めに仕上がりました。
それでも、しゅわしゅわと泡立つワインは特に新しい物好きのイギリス人に気に入られ、社交界などロンドンを中心に流行するようになります。
そして、他との差別化を図りたい商人たちによって、より強い泡立ちを求めて糖分が添加されるようになり、現代のトラディッショナル方式(シャンパーニュ方式)へと繋がっていくのです。
(ただし、独特の澱抜き(デゴルジュマン)の手法が確立されたのは、1810年代にヴーヴ・クリコのもとに勤めていた職人によってピュピトルが発明されてから)

 5~6気圧もの高圧なシャンパンが成立・普及したのは、同時期にガラス瓶の品質が向上して強度がアップした事も関係しています。
スパークリングワインが出回り始めた頃は、まだ弱いビンが相当数混在しており、熟成や流通段階で破裂して数が減っていくため、残ったワインの価格もそのリスク分が乗せられた以上に高いものにならざるを得ませんでした。
それが、安全なビンが安価に作られるようになったことで(それでも安くはないとはいえ)適正な価格まで下がり、一時の流行で終わらずに定着したのです。
頭が膨らんで端に向かって太くなる独特な形状のコルクや、コルクの上からかける針金(ミュズレ)、そしてそれを引っかけておくために口の部分が広がったボトルなども、同時期に開発されました。

A.D.1800年頃

 革命後、ナポレオン統治下のフランスで、糖分不足の果汁に糖分を足して発酵を促す「補糖(シャプタリザシオン)」が普及します。
フランス革命は、一部の聖職者や王族、貴族から支配権が市民に移った、いわゆる「市民革命」のひとつでした。
革命政府は旧支配者層が所持していた財産を没収して国の債務の返済に充てましたが、この際にキリスト教会や司祭が所持していたブドウ畑も競売にかけられ、多くは資産家や銀行などに落札されました。
小作人がいるとはいえ、畑の経営者がほとんど素人同然では、いままで通りの高品質なブドウが育つわけはありません。
ブドウの糖度不足によってワイン不足が起こる事を懸念したナポレオン時代の農務大臣、ジャン・アントワーヌ・シャプタルは、この問題を回避するため、ブルゴーニュなどで昔から行われていた補糖を許可、推奨します。
これによって畑の所有者の代替わりによる深刻なワイン不足は起こらずにすみ、この功績から補糖のことを「シャプタリザシオン」と呼ぶようになりました。

A.D.1855年

 第一回パリ万国博覧会で、公式にははじめてワインの詳細な格付けが発表されました。
当時すでにイギリスへ輸出されていた高級ワインの権威付けのためだったので、主にボルドー、メドック地方の赤ワインが中心の、現在よりも限られたランキングでしたが、これが現在まで続く格付けの原型となっています。
また、これを期に大量に出回るようになった偽物のワインと本物を区別するため、現代のような詳細な情報を印刷されたラベルをボトルに貼るようになりました。
当時はまだ大量の印刷技術が出始めで、手書きのものよりも偽造が難しかったためです。
その後、半世紀以上の時間をかけて表示義務や規定などが定められていく事になります。

A.D.1860年頃

 フランスの科学者、ルイ・パストゥールによって、低温殺菌法(火入れ/パストゥリザシオン)が開発されます。
彼がワイン業界から「ワインの腐敗を防止する方法を調べて欲しい」と依頼を受けたのは1850年代の事。
直前に輸出したワインのうち相当量が変質して、多額の損失が発生したことがきっかけでした。
腐敗、そして発酵が微生物の働きによるものであることを発見したパストゥールは、それからわずか数年でワインの風味を損ねずにこれら微生物の活性を失わせるための条件(55~60度で30~40分加熱)を特定し、低温殺菌法を確立します。
これによってワインの腐敗は劇的に抑制され、また寒冷地で発酵が止まってしまう問題や過剰に再発酵が起こってしまう問題なども解決されることとなりました。
衛生環境や温度管理の手法が格段に向上した現代では、一般的にはワインは火入れされていませんが、日本を含む新世界の一部の地域では今でも品質確保の一環として用いられています。

A.D.1870年頃

 フィロキセラによるヨーロッパブドウへの被害から、耐性のあるアメリカ系ブドウの台木へ接木する方式が編み出されます。
1863年頃から発生したヨーロッパにおけるフィロキセラ被害の拡大は、「発症からわずか2週間ほどでブドウの樹が枯死する」「一箇所で発生すると、畑、地区、地域全体に急速に広がっていく」「一度発症すると同じ土地に何度ブドウを植え直しても同じように枯れてしまう」「有効な解決策は地理的、金銭的に難易度が高く、一度はそれで対策しても数年でまたフィロキセラが戻ってきてしまう可能性が残り、根本的な解決にはならない」という特徴から大パニックを引き起こしました。
一度はヨーロッパのワイン産業全体が壊滅するかとすら危ぶまれましたが、1874年に著名な種苗業者であったアンリ・ブーシェが、フィロキセラ耐性のあるアメリカ系ブドウ品種の台木に接木する事で被害を避けられる事を発見。
有効性が証明されると共にヨーロッパ中で実践され、ブドウ栽培は全滅の危機をすんでのところで回避したのです。
この時の植え替えのスピードは相当なもので、当時の人々がどれだけ焦っていたかがよくわかりますが、この植え替えに伴って人気がなくなっていたり生産性の悪かった一部の品種が絶滅し、新しい品種と入れ替わるなどの影響も出ました。
現在は、栽培されているヨーロッパ系ブドウ品種の99%が台木を使用したものになっています。

A.D.1885年

 殺菌剤のボルドー液が発明されました。
硫酸銅と消石灰の混合溶液であるこの農薬は、当時流行していたべと病への対抗薬として開発されましたが、うどん粉病やべと病など菌系の病害だけでなく、果実や葉に悪影響を及ぼす虫害も防止する事ができます。
有機栽培でも使用することが可能で、化学的に合成された薬剤と比べても十分な病害の予防や改善効果があるため、現在でもあらゆる植物の栽培で広く使用されています。
ただし、ソーヴィニヨン・ブランや甲州など一部の白ブドウで独特の香味を作り出す「チオール」という成分を生かしてワイン造りをする場合は、この成分が銅と非常に結びつきやすいため、使用できません。

A.D.1907~1935年

 現代のワイン法の原点となるAOC制度が設立されます。
1800年代後半に続発したブドウへの被害、特にフィロキセラ災害やべと病の大流行によって、フランス国内では一時的にワインの流通量が激減してしまいました。
その需給バランスの差を埋めるために、レーズンを粉砕して水と混ぜた液を原料としたものや、そもそもブドウが一切入っていない香料や調味料で風味付けしたアルコールなどの「ワインもどき」、そして国外から流入した低品質なワインが市場に並ぶようになります。
そしてこれらの安価なアルコール飲料は、商人にとっては調達が容易でワインよりも高い利益率があるため、消費者にとっては(味にさえ目をつむれば)安く酔えるため、ワインの供給量が元に戻った後も市場に居座り続けました。
これに対して、このままシェアを圧迫され続けたらただでさえ不安定な国内のワイン業界が衰退してしまうと、生産者が結束して法規制の制定を要求。
最終的に暴動まで起こりかけ、政府側も要求を呑むことになります。
1907年に「ワインはその年に収穫されたブドウ果汁を使用しなければいけない」と定められた事などを皮切りに、数回に分けて断続的に制定された規定は、1935年のAOC制度設立によってまとめられました。
以降、ヨーロッパにおけるワインに関する規定は、このAOC制度を模範として設定される事となります。

A.D.1920年頃

 ドイツの人智学者、ルドルフ・シュタイナーが現在のビオディナミ(バイオダイナミック)農法の原型となる説を発表しました。
ビオディナミ農法は「宇宙の霊的なフォースを地上に呼び込む」ことを目的とした一連の作業を特徴とし、肥料や農薬の代わりに「牛の角に牛糞を詰めて地中で発酵させたもの」やスギナなどの植物の粉末、水晶などの鉱石をまいて栽培を行います。
彼の独特な農業解釈や現代で言うところの「スピリチュアル」に寄った説明には否定的な意見が多いようですが、一部にはビオディナミで成功した生産者がいることも事実であるため、100年近く経った今も少数ではありますが消滅することなく続けられています。

A.D.1950年頃

 第二次世界大戦が終わり、物流が世界的な規模で行われるようになると、大国を中心に様々な品物が大量生産されるようになります。
ブドウやワインも同様で、特に新世界を中心として、飛行機での農薬散布や高度な機械化による集約的農法、そして工場でのワインの大量生産などが盛んに行われるようになりました。
いままでワインが飲まれていなかった国や地域にも、比較的安価で分かりやすいワインが流通するようになったため、世界的なワインの消費量は一時的にアップします。
しかしワインの生産量が上がった反面、品質の低下や画一化が進んでしまったたことや、大量散布の農薬が植物や人間に対する悪影響が取りざたされるようになったため、現在ではやめてしまったケースが多いようです。

~現在

 世界的に価値観の多様化が進んだ関係で、ワインもかつてないほど様々な特色を持ったものが造られるようになってきています。
もともと柔軟な新世界はもちろん、旧世界でも市場のニーズや温暖化など環境の変化に合わせた進化を余儀なくされており、単に「伝統的」なだけで認められるブランドは少なくなりつつあると言えるでしょう。
また、インターネットなどの技術によって、ブドウ栽培や醸造の新しい技術、マーケティングに関する情報、消費者からのフィードバックなどに触れやすくなったのも、多様化の一因と言えるかもしれません。
ネット上のショップを利用する事で、小売店のような規模でありながら世界全体を相手にした販売戦術を取ることもできるため、今後もこの傾向は加速していくと考えられます。