北イタリア イタリアのワイン生産地1

目次

北イタリアとは

 北イタリアは、イタリアの国土を地理的、歴史的な観点から三分割したうちの北側の地域のことです。一般的に、

の8州を指します。

現在のイタリア共和国のもととなったイタリア王国が成立する際に重要な役割を果たしたピエモンテ州や、中世にアジアとヨーロッパの海洋交易の中心地として発展したヴェネツィアを含むヴェネト州など、イタリア内でも特に社会的・経済的に重要な都市が多く、比較的裕福な地域が多くなっています。
ワインの生産においても、どちらかというと品質面で知られる産地が多く、19世紀から20世紀にかけての「質より量」の時代から、例外的に高品質なワインとして有名だった銘柄も少なくありません。
地理的に近いことからフランスやオーストリアなどの文化の影響を強く受けた地域もあり、他の国や地域とは異なる独特のワイン文化がいくつも見られます。
緯度的には日本の北海道付近と同程度ですが、海に近い地域は温暖な海洋性気候を持つため、ブドウの育成に適した気候となっています。

北イタリアの歴史

ローマ帝国の支配前後の繁栄と衰退

 イタリアでのワイン造りが本格的に始まったのは、紀元前8世頃、ギリシャ人の入植によるものとされていますが、ブドウ栽培やワイン造り自体はそれよりもずっと前から行われていました。
北イタリアにおいても、先住民であるエトルリア人によって栽培されていたと見られるブドウの種などの痕跡が見つかっています。
しかし、ローマが拡大しローマ帝国となったあとはガリア(現在のフランス)でのワイン造りが発達したことから、北イタリアのワイン産業は一時停滞。
さらにローマ帝国が分裂し、西ローマ帝国が滅亡した5世紀から10世紀にかけて続いた支配者の度重なる交代やそれに伴う戦争によって、イタリアの他の地域と同じようにワイン文化自体が衰退してしまいます。

コムーネの発達

 神聖ローマ帝国の皇帝がイタリア国王を兼ねた11世紀に入ると、海洋貿易やそれに伴う金融業によって北イタリアの各都市が発達。
さらに12世紀からは農業技術の発達と耕地の拡大も進み、次第に商人達が富を蓄えて権力を増大させていきます。
こうした大きな力を持った都市はコムーネ(commne)と呼ばれ、神聖ローマ帝国領でありながら自治権を持った「都市国家」のようになっていきました。
(これは、皇帝がイタリア国王を兼任したにもかかわらず、ほとんどドイツの領地に常駐していてイタリア側の当地がおろそかになっていたことも関係しているとされています)
コムーネ同士は互いに領土や自治権を狙いあうライバル的な関係でしたので、同じ地域にあっても異なる独自の文化が発展するようになり、これが現在のイタリアのブドウ品種に大量のシノニムがあったり、同じ製法のワインがいくつもの呼び名を持つようになる原因となったとされています。

北イタリアの繁栄とワイン文化の浸透

 13世紀には十字軍の遠征に対応する形で貿易面での能力がさらに向上。
中世の発展の基盤を整えます。
この頃になると有力な商人達の経済力はさらに上がっており、封建領主から土地を買い取り、小作人に作物を作らせる地主も目立つようになってきます。
北イタリアは西部のポー川を筆頭に河川にも恵まれ、灌漑などの効率的な農業システムの整備も進んだことから、人々が地域全体に分散して居住し、それにあわせて農耕地も広範囲に作られていきました。
ちょうど同時期にブドウやオリーブの植樹が活発になり、ワインの生産量も上がります。
大きな土地を所有する地主は、自分の権力を示す目的で館周辺にブドウ畑を作り、ワインを蓄えたり客に振舞ったりするようになりました。
また、庶民の間にもワインが流通するようになったため、食事の際に一緒にワインを飲むことが習慣として定着していきます。
また、ヨーロッパ各地でギリシャの甘口ワインが人気となり高額で取引されるようになると、イタリアでも同様のワインを造る生産者があらわれ、現在の「レチョート」や「アマローネ」などの原型となりました。
この時期には古代ローマ時代からの品種はもちろん、ギリシャやフランスなどから運び込んだ品種、それらを掛け合わせた品種なども栽培されるようになり、ワインの多様化が進んでいきます。

優位性の喪失と他国支配

 しかし、1488年にバルトロメウ・ディアスによって喜望峰周りの航路が発見されたことで事態は一変します。
アジア方面との貿易に大西洋回りの航路が使用されるようになったことから、地中海とその沿岸の港の重要性は一気に薄れ、イタリアの経済的優位性の基盤が大きく揺らいでしまいます。
また、新大陸が発見され中南米から大量の金銀が流入したことで、ヨーロッパ中で深刻なインフレが発生。
金融業の中心として発展していたヴェネツィアなどの諸都市は、大きなダメージをこうむることになりました。
さらに、宗教改革による教皇の権力の低下や、ナポリ王国とミラノ公国の対立を利用されてフランスの介入を招くなど、いくつもの外的要因によって国力が低下していき、最終的にスペインの支配を受けるようになったことで数世紀にわたる混迷の時代が訪れます。
ジェノヴァ共和国やヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国など北イタリアの幾つかの共和国は消滅を免れましたが、国力は低下し文化的な進歩は18世紀に入るまで止まってしまいます。

イタリア統一

 流れが大きく変わるのは1796年。
フランスの将軍、ナポレオン・ボナパルトが攻め入ってきたのがきっかけでした。
国力の低下はもちろん、それまでスペインやオーストリア、地方領主などの圧制に苦しんできたイタリア人がナポレオンを支持する動きを見せたことから、戦局は終始ナポレオン有利に進み、1805年には現在のロンバルディア州、ヴェネト州周辺からイタリア半島北部に至るイタリア共和国(後のイタリア王国)を樹立。
南部のナポリ王国も親族のジョアシャン・ナポレオン・ミュラ(ジョアッキーノ一世)に統治させていたため、フランスの衛星国としてではあるものの、ナポレオンによる実質的なイタリア統一がなされます。
この状況はナポレオンの失脚と共にわずか十年で終了し、また分断された状態に戻ってしまいますが、一時でも統一状態にあったことと、それが他国の手によってなされた、という事実がイタリア人を刺激し、自分達の手でのイタリア再統一を、という動きが次第に活発化していくことになります。
共和派と王政派で対立が起こるなど難航する場面もありましたが、サルディーニャ島を領土としていたサルディーニャ王国がイタリア北部の大部分を併合。
同時に南部をほぼ征服していた革命家のジュゼッペ・ガルバルディがその領土をサルディーニャ王国へ譲渡したことで、1861年に現在のイタリアの基礎となるイタリア王国が成立しました。

大量生産型のワイン造りへ

 しかし、政治的は一定の安定を得たものの、ワイン産業についてはイタリアが現在の地位を獲得するにはまだ時間がかかります。
長い混迷の時代に文化的な停滞を余儀なくされたイタリアのワイン造りは、他の主要生産国に比べてかなり水準の低いものでした。
もともと環境的にブドウ栽培に適していすぎるイタリアは、フランス南部のプロヴァンス地方やラングドック・ルシヨン地方のように放っておいてもブドウが育つため、品質向上や技術の進歩の必要性が薄かったのですが、17世紀頃の近代的な栽培や醸造の技術がどんどん進歩していった時期に、それについていく体力が無かったのも大きな要因のひとつといえるでしょう。
また、フランスで巻き起こったフィロキセラ災害とその後のワイン不足などにより、大量生産の安価なワインに対する需要が急激に伸びたことが、方向性を決定付けてしまったともいえます。
その後、フランスから広まってきたフィロキセラが西部の地域を中心に猛威を振るったため、1世紀以上の期間品質向上に向ける余力がないまま大量生産的なワイン造りを余儀なくされることとなります。

イタリアワインの近代化と飛躍

 イタリアのワインが現在知られているような良質なものになっていったのは、結局第二次世界大戦が終結したあとからでした。
1963年にはイタリアの原産地呼称統制制度であるDOC法が成立し、古くから名の知られた名ワインから次々と認定されていきます。
特に北イタリアは比較的裕福だったことから例外的に良質なワインを造り続けていた地域もあり、早くに認定を受けたワインが多くなっています。
1970年代にはトスカーナ州から「スーパー・タスカン」と呼ばれる高品質テーブルワインが生まれ、世界的なイタリアワインの印象を塗り替えました。
この改革はあまりに急激だったため、例えば「バローロ」では基本的な方針が2つに分かれ、まったく異なる方向性のバローロが生まれてしまうなどの混乱もありましたが、おおむね順調に改善が進んでいます。
21世紀に入り、質の面でも量の面でもフランスと肩を並べるワイン大国として知られるようになったイタリアですが、なかでも北部の地域は特に重要な役割を担っています。