中世に拡大したワイン産地 大航海時代の新世界ワイン史 (A.D.1400~A.D.1800頃)
ヨーロッパで力を蓄えた強国たちは、15世紀以降新しい領地を求めて海を渡りはじめます。
精力的に航路の開拓が行われる中、最初に成果を上げたのはスペインでした。
1521年、中米に栄えていたアステカ王国を打ち滅ぼしたあと、植民地とした土地へ入植者たちを次々と送り込みます。
当時のヨーロッパ諸国の未開拓地への侵攻には「未開の民にキリスト教を授けて教化する」という大義名分もあったため、植民地へは宣教師たちも多数同行し、開拓が進むと同時に教会が建てられていきます。
当然、ミサなどで使用するワインも必要となるため、本国と同じように教会主導でのブドウ栽培とワイン造りが行われるようになりました。
一方、北米大陸へはイギリスやフランスが領土を広げていきましたが、もともと自生していた品種のブドウはヨーロッパ系とは性質が異なり、思うようなワインを造ることができませんでした。
なにより、独特の「フォクシー・フレーバー」が我慢ならなかったのでしょう。
アメリカ系ブドウでのワイン造りはかなり早い段階で断念されたようです。
人々は次にヨーロッパから苗木を持ち込んで植えますが、当時はまだアメリカ東海岸に潜む害虫「フィロキセラ」の存在が知られておらず、台木を使用せずにそのまま植えたため、試みが成功することはありませんでした。
北アメリカ大陸で本格的なワイン造りが始まるのは19世紀、南米から西海岸へと宣教師たちが北上してきてからです。
オーストラリアにはじめてブドウが持ち込まれたのは1788年、英国海軍のアーサー・フィリップ大佐によって、ニュー・サウス・ウェールズ州、シドニー付近で栽培が始まりました。
ただし、この頃は需要の関係もありまだまだ実験的な意味合いが強く、本格的なワイン造りにまでは結びつきませんでした。
オーストラリアのワイン用ブドウ栽培の父とされているのは、同じ英国人のジェームス・バスビーです。
ジェームスがニュー・サウス・ウェールズ州にブドウ園を開いたのは1825年のこと。
品種は、シラーズ(シラー)とピノ・ノワールだったようです。
このブドウ園は大成功を収め、オーストラリア全域にクローンの樹が植えられていくことになりました。
特にシラーズは、フランスではコート・デュ・ローヌ地方の一部で植えられていただけの、比較的影の薄い品種でしたが、オーストラリアでは土地や気候に良くマッチしたらしく、以降現在に至るまでオーストラリアを代表する品種となっています。
また、ジェームスは1833年にニュージーランドにも手を広げ、ここでもワイン造りを根付かせています。
アフリカ大陸の最南端、喜望峰へはオランダがブドウを伝えました。
17世紀のことです。
ただ、当初はアフリカ大陸を迂回してインド方面との交易を行うルートの中継地点として、長い航海を耐えるためのひと時の休息や補給のための基地を設置したのがスタートで、この時点ではブドウの栽培地としての適性はあまり期待されていなかったようです。
しかし、基地を保守する人々の生活や需要もあり、教会とブドウ畑が作られると、思いのほか良質なブドウが取れることが判明します。
特になだらかな丘に吹く「ケープ・ドクター」と呼ばれる風は、病害を遠ざけ安定した収穫をもたらしてくれたため、スタートから1世紀もしないうちに数万本のブドウが植えられた一大生産地へと成長しました。
その後もフランスで発生した宗教対立から逃げてきた修道士によって技術が伝えられたり、フランス戦争の影響で輸入できなくなったフランスワインの代わりとしてイギリスで重宝されたりと、紆余曲折を経ながらもワイン造りが続くことになります。
その他にも、ヨーロッパの植民地とキリスト教のあるところには、次々とブドウの樹が植えられていきましたが、雨が多すぎたり暑すぎる土地ではうまく育たず、最終的に撤退することも少なくなかったようです。
(かわりに、と言うわけではありませんが、赤道近くの地域ではコーヒーの樹が植えられていきました)
うまくブドウが根付いた地域では、栽培法もワインの醸造法も後世まで大切に伝えられ、その土地ごとの環境や食べ物に合わせて形態を変化させつつ、重要な作物のひとつとなっていきました。
こうして、ワインは世界中で親しまれる文化としての地位を獲得していったのです。