フィロキセラ災害の顛末 突然現れたワイン全滅の危機とAOC制度の成立 (A.D.1800~A.D.1935頃)
その大災害の始まりは、フランス南部のほんの小さな、しかし不可解なブドウの樹の枯死でした。
十数年前に発生したうどん粉病の流行でワインの生産量が足りなくなっていたフランス、特に南部では、高品質な果実を収穫できる品種や伝統的な品種よりも、生産量の多い樹が優先的に植えられていました。
短期間での集中的で限定的な需要は供給の不足を生み、ヨーロッパ産の苗木だけでは注文をさばききれなくなった業者は、南アメリカや南米、そして北米大陸からも苗木を輸入するようになります。
1863年に、フランス南部のガール県付近で急な枯死が発生したのも、そんな輸入苗木が植えられていた畑の一部でした。
ほんの数週間前までは何の問題もなかった樹が、みるみるうちに衰えて枯れてしまう、という原因不明の被害に生産者は首をひねりましたが、他の土地から持ち込んだ、それも新しい樹の不具合はそんなに珍しいことではありません。
一応調査はされたもののこの時点では原因も特定されず、枯れた樹は引き抜かれ、新しい樹が植えられて終わりました。
しかし、同じ被害は次の年も、その次の年も起こりました。
しかも、別の畑、別の地域へと範囲を広げながら、急激に伝播していったのです。
ブドウの樹が成熟して十分な果実をつけられるようになるまでには10年以上の歳月が必要なので、葉や果実をだめにしてしまう病気と違って、樹そのものが枯れてしまうとその被害はその後何年にもわたって影響します。
さらに一度被害が発生すると、何度他の樹を植えてもほとんど根付かずにまた枯れてしまうようになるのですからたまったものではありません。
被害範囲が拡大するにつれてフランス中がパニックに陥り、あわてた政府が主導して原因の調査と対策に当たりました。
ほどなくして、この原因不明の災害は北米大陸に生息している「フィロキセラ(アメリカネアブラムシ)」という害虫によって発生していることが判明します。
この体長1mm程度の虫は、ブドウの樹の根に集団で取り付いて樹液を吸い尽くし、わずか2~3週間で樹を枯らせてしまうのです。
本来はヨーロッパには生息しない害虫ですが、アメリカから輸入された樹の根や土について上陸し、大量のブドウの樹が密集して植えられているという彼らにとっての天国のような環境で一気に増殖。
わずか十数年の間に、もはや対症療法ではいかんともしがたいほど、広範囲に生息地を広げてしまったのです。
根に取り付くため薬剤による殺虫は効果が薄く、完全に処理するには費用がかかりすぎます。
また、もし一度完全に取り除けたとしても、薬剤の効果が薄れたころにはまた畑に戻ってきてしまう可能性が高く、根本的な解決にはなりません。
最初の被害確認から10年後の1870年代には、被害はフランスだけにとどまらず、イタリアやオーストリア、ドイツ、スペインなどの他のブドウ産地にも広まっていました。
ヨーロッパ中のブドウ畑とそこから生み出されるワインが、ほんの小さな取るに足らない虫によって、まさに全滅の危機にさらされていたのです。
解決策が見つかったのは1874年。
フィロキセラの故郷であるはずの北米に土着品種のブドウが存在することに気付いた研究者が、アメリカ系ブドウの根にフィロキセラ耐性があることを発見します。
アメリカ土着のブドウには独特の香りがあるため、そのままワインの原料とすることはできませんが、耐性のある根だけを利用してその上にヨーロッパ系品種のブドウを接木することで、果実の性質はそのままにフィロキセラと共存できるようになることが分かったのです。
アメリカ系品種の台木に接木した苗木への植え替えは、すでに被害が発生している地域からスタートし、まだ無事だった畑まで含めてヨーロッパ全域で行われました。
フィロキセラを退治できるわけではない以上、対策していない樹は遅かれ早かれ枯れてしまうからです。
(結局、現在では世界中に植えられているワイン用ブドウの99%以上が台木によって育てられています)
植え替えには非常に多くの労力がかかりましたが、4000年以上の歴史をもつヨーロッパのワイン文化は、こうして滅亡の危機を乗り越えることに成功したのです。
フィロキセラによる大災害をどうにか乗り切ったワイン業界ですが、その影響はけして小さくありませんでした。
前述のとおり、ブドウの樹は植えたらすぐに収穫できるようになる、というものではありません。
植え替えにもけっして安くない費用がかかるうえ、その後数年にわたってまともな収入が期待できないという状況は、余力のない中小の生産者に廃業を余儀なくさせ、いくつかの地域ではブドウ畑が消滅してしまいました。
さらに、生き残ることができた生産者もそれで一安心とはなりません。
もともとの被害と植え替えによって、フランスワインの生産量は一時大きく減少してしまいます。
それでなくともワインの消費量が拡大していた時期だったため、国内のワインの需要と供給のバランスが崩れてしまいました。
その結果、国外からあまり質の良くない廉価なワインが大量に流入するようになり、国内でもレーズンやブドウの搾りかす、場合によってはブドウを一切使用せずに、甘味料や香料で味をごまかしたワインもどきのような「ワイン風アルコール飲料」が生産されるようになってしまいます。
これらはフランスのワイン生産量が従来の水準まで戻っても流通し続けたため、今度はフランス全体のワイン供給量が需要を大きく上回り、ワインの価格の暴落を引き起こしてしまいました。
日本酒業界における「三増酒」と同じような問題が発生してしまったのです。
せっかくフィロキセラの被害を生き延びたのに、このままではまともなワインが衰退してしまいます。
危機感を覚えた生産者は、集団で結託して法律による規制を敷くよう、政府に強く要求しました。
政府側は当初慎重な姿勢を示していましたが、あまりにも激しい抗議活動が続いたため、要求を呑む形で法案を採択せざるを得ませんでした。
最初は「ワインという名称を使用するには、生のブドウを原料としていなければならない」という定義から始まり、細かい製法や地名の使用権なども順次定められていきました。
1907年から段階的に制定された法案は、最終的に1935年のAOC制度のスタートによってまとめられ、現在まで続くワイン法の基礎となっています。